そして戦後昭和23年、一東書道会創立と同時に神戸・西井美術館に於いて第一回一東書道会展を開催しました。
書作家としての龍洞は、日展において、昭和30年の特選を挟んで33年まで小字の帖作品を出品していましたが、一転34年の日展では、藤原佐理を基調とした大字屏風作品で二度目の特選を受賞しました。ここから龍洞の掲げる「一古筆三年徹底研究主義」の成果が36年の日展菊花賞に繋がりました。
昭和42年、一東書道会二十周年記念として開催された「深山龍洞近作百品展」では、王朝風作品から「仮名の前衛」と評される作品まで、仮名の書表現の限界を探るかのような多様な作品を発表しています。その後徐々に枯れた作風に移行して昭和50年の日展内閣総理大臣賞に至りました。
その翌年春から逝去の前年54年秋までの間に書かれたと思われる未完の万葉集書写は、没後に発見された遺作で、あらゆる古筆を渉猟した龍洞の集大成の作と話題になりました。昭和52年、一楽書芸院の発展的解散に伴い、同年四月号より競書誌「書道研究 一東」を刊行し、また同年秋に「第一回 一東書道会全国展」も開催しています。
現会長、文化功労者・日本芸術院会員井茂圭洞は、平成3年から会長を務め、常に革新的な考えをもって、会の運営や会員の指導に当たっています。
|